第二次世界大戦後、奇跡的な復興をとげ、世界的な経済大国へと成長した日本ではあるが、反面約七百兆円の借金を抱えている。国民一人当たり約五百七十万円の借金を生まれたばかりの赤子から年老いた老人迄が背負っているのである。
まさに日本国破産の危機が迫っているのである。にもかかわらず、今の日本人はその危機感をほとんど感じていないのではないかと思われる。一億総平和ボケになっている気がしてならない!!
現実は、経済的な面だけでなく、あらゆる分野で危機的状況になりつつあるのである。
ところが、日本だけでなく世界的にそうなるであろうと予言した人が、六十年以上も前にいたのである。その人の名は、インド独立の父と言われた、マハトマ・ガンジー(1869-1948)である。訳し方によって、多少の違いもあるようだが、ガンジーは、『七つの社会的大罪』として次のことを述べられている。
全くもって、今の日本にすべて当てはまることである。その一つ一つの項目を今の日本の現状に照らし合わせて、解説してみることにする。
哲学なき政治
党利党略、私利私欲になっており弁解の余地がない、と言われても仕方のない政治の現状は、ますます無党派国民を増やしつつあるのではなかろうか。百年の計を見据えた明確なる哲学を持ち合わせた政治家が何人いるのだろうか―――と考えるのは私一人だけだろうか。
小事にしろ、大事にしろ、事を起こせば組織や金は必要であることは確かである。だからと言って、目先の小極にとらわれて大極を見失ってはならないのではなかろうか。そこに、日本国のリーダーとしての政治家の責任がある。
己を捨てて、日本国のために命をささげる。 かつての明治維新を成し得た坂本龍馬をはじめ、維新の志士達や江戸城無血開城を成し得た、勝海舟と西郷隆盛のような哲学を持った政治家の誕生こそ、今の日本には焦眉の急務である。
倫理なき商業
近頃の企業不祥事を知るにつけ、目を覆いたくなるものがあまりにも多すぎる。しかも、日本企業のリーディング・カンパニーといわれる大企業に多くみられることははなはだ情けないことである。 偽表示、内容ごまかし、利益隠し、社会のための企業ではなく、企業のために社会を悪利用しているかのごとくである。弱肉強食中心で、正しいものが勝つのではなく勝ったものが正しい―――。
大企業・大金融業の利害中心の企業経営で果たして雇用は守れるのだろうか。
ますます貧富の差がひらく社会になっているような気がしてならない。
儲けるためには、生き残るためには手段は選ばないといった倫理なき商業主義が本当に正しいのだろうか。
労働なき富
品の売買を通じて富を得るのではなく金を動かして富を得る。まさに、現代社会は、金が商品である。
どこの会社だったか憶えていないが、一株五万円が上場したとたんに二千五百万円になる。四株持っていた社員はたちまち億万長者――こんなテレビ番組を見た時、真面目に働いている中小企業の社員は何を目標にして働けば良いのか、それどころか働くことすら、バカバカしくなるのではないか。
まさに、労働なき富の時代になりつつある。果たしてそれで良いのだろうか。株主配当中心の会社経営でほんとうに社員は働きがいを見い出せるのだろうか。
人間性を無視した成果主義が本当に人間の可能性を引き出してくれるのだろうか。逆に要領のいい人間だけが得をするような会社にならないだろうか。
品格なき教育
知育、徳育、体育とは名ばかりで、知識偏重の教育で本当に人間を育てることができるのだろうか。人間は狼に育てられたら狼になるのである。今の教育では、人間が人間としての品格を育てられるとは決して思われない。
損得中心の人間ばかりが増え、善悪や人間にとって最も大切な側面である思いやり感謝・奉仕等人間性を育成することを軽視した教育であるなら、動物人間を育てるようなものである。動物は食欲と生殖のみで生きているのである。今、最も教育が危ないのである。
人間性なき科学
本来人間を幸せにするはずの科学が、逆に人間を不幸にしている。見えるもの中心の唯物論的近代科学は、目に見えない精神性を全く無視してきた。そのために、あらゆるところで難問が山積している。
科学を発達させればさせる程、人間は不幸になりつつある。 惣(すべて)という字は『物と心』とでできている。その視点から科学することこそ、正しいのである。
今の科学が進めば進むほど、自然の秩序、社会の秩序、生命の秩序は崩壊していく。今、科学は、本質に回帰しなければならない。
良心なき快楽
これも、現代社会の大いなる歪の所産である。麻薬飲用者が年々日本国内にも増えている。現実逃避の安易な快楽に溺れていく現象は極めて危機的である。
快楽のためには、援助交際すら何の罪悪感も持たない子供達の報道を見るにつけ、情けなくなる。
真面目に生きるよりも、手っ取り早い安易な選択をしてしまうような社会に誰がしたのか。大人達の責任は極めて重いと思うのに、その大人が堕落しつつある。
献身なき信仰
本来宗教の本質は、森羅万象の普遍性を知り、お互いが生かし合わなければならない―ということを教えるものである。宇宙から見れば、地球は一つの大きな家族体であり、仲良くしなければならない筈であるのに、宗教戦争は世界各地で後を絶たない。
同じように、人間が生きる上においてもそれぞれの立場を尊重しながら、献身しあうところに、信仰の本質があるにもかかわらず、己の我欲中心の生き方の中に真の信仰などある筈がない。
信仰を持つということは、人間学を極めるということである。しかし、そのような信仰観は影をひそめしてしまっている。
以上大雑把に述べてきたが、私一人の私見であろうか?読者はどのように感じられるであろうか。大多数の読者は、少なからず私と同じ意見に近いと思うがいかがであろうか。
目覚めた人間が立ち上がる時
今程、生きがいのある時代はないのである。危機的日本を救えるのは、今を生きている人間しかできないのである。
物は考えようである。今の日本が、ガンジーの言われるような社会であれば、その病を治すチャンスが与えられている―そう思えば、夢も希望も生まれてくる。
明治維新を創ったあの若い志士達のような人間が、今の日本にもきっといる筈である。
この国は万世一系、二千年続いているのである。その歴史は紆余曲折はあっても、連綿と引き継がれているのである。この国の深層には、この国の将来を築ける無限なる可能性が秘められていると信じている。
目覚めた人達が行動を起こす時である。私は、そのために、『CMF地球運動』を提唱している。そして、その鼓動はすでに始まっているのである。
大きなウェーブを創ろうではないか。
皆で肩を組んで一歩を踏み出そうではないか。
時代があなたを求めているのである。