日本は「祈り」の国
財団の目指す「共尊・共生・共育」とは「共尊…共に敬い合う」「共生…共に生きる経済を作る」「共育…共に生きられる社会を育てる」という意味だ。
日本中が震撼した千年に一度の未曾有の災害も、発生当時はその物々しい雰囲気に、誰もが心を一つにしようと、改めて「絆」の大切さを実感し、行方不明者や亡くなった方々、そして被災者のために日本のために祈った。
日本人の宗教心とは、本来この事である。現代の宗教とは似ても似つかぬものであり、この大きなギャップに心を痛めているのは、私だけではないはずである。
現代人は「地震」を自然現象と表現するが、太古から地震は聖なる大地の神が起こすものだった。対立で物事を見る習慣のある私達は、地震と戦おうとするが、古来の日本人は、何があっても自然と共生した。
それは驚異的な自然への畏敬であり、水や光や土が育む豊かな恵みへの感謝であった。それらを集約するとすべては「祈り」につながり、3つの言葉で表現できる。そして、この祀祭政の3つの祈りは、日本人の生き方そのものだった。
3つの祈り
すまない…生命への祈り(祀)
ありがたい…自然への祈り(祭)
もったいない…社会への祈り(政)
◆すまない
生命を共尊するという祈りだ。例えば、私達はあらゆる生命の命をいただいて(犠牲にして)生きている。捧げてくれる命への畏敬の念から、その生命の分も生きるという祈りのことだ。
「いのちを食べる」とは「いのちの移し替え」であり、食べることは神聖なる「祀りごと」だった。だからこそ、日本人は、「いただきます・ごちそうさま」を大切にしてきた。
今「食べる」ことは娯楽的になり、捧げてくれた命に報いるような生き方は忘れさられている感さえある。
現代社会はこの「すまない」という精神がなくなりつつある。この祈りは人に対しても同じだ。人が物と化した社会に滅亡はあっても、繁栄はない。
◆ありがたい
自然と共生するという祈りだ。自然からの恵みなくして、人間は生きてはいけない。人は損得や欲で差別したりするが、自然は悪人や善人に関係なく、平等に日を照らし空気を与える。
しかし自然は、創造と破壊が表裏一体だ。例えば、稲妻は樹木を倒し野に火を放つことさえある。場合によっては人をも殺める。しかし、これは科学的にも証明されているが、雷の多い年には豊作になる。
お金さえあれば何でも手に入る的な社会に、今こそ「ありがたい」精神の復活は急がれる。
◆もったいない
社会を共育するという祈りだ。日本人のもったいない精神は、「質素倹約」という外国語にはない言葉にも現れている。
自然の恵みは多くても、資源の少ない日本で、物を大切にするという文化は育まれた。近年は使い捨て文化に染まってしまっているが、今の時代こそ、物にも人にも「もったいない」精神は、エコや社会活性化の機動力にもなる。
何よりも可能性を秘めた若い人達のエネルギーが社会に生かされていない、ご年配の知恵を大切にしない社会こそ、目には見えないかもしれないが、人的資源をムダにしている、もったいない社会と言って良いだろう。
このような社会が繁栄するはずはないのである。
3月11日を「祈りの日」に
祈りなくして繁栄なし
日本は祈りによって、文明・文化を育んできた。戦後の日本の復興は、この精神のもと国民の総合力で起こした奇跡だった。
残念ながら、今、国を憂い世のために働いている日本人は、本当に少なくなった。国という意識もなく、自分や自分の会社の儲けだけを重視していて、本当に繁栄はあるのだろうか?
震災直後には、取り戻したように思えた日本人のこの心は、すでに他人事のようになり、いろいろなメディアから、確かに報道はされていても、「それとこれとは別」のような雰囲気が、醸し出されるようになった。
今年は日本にとって、あらゆる面で岐路に立たされた年と言えるかもしれない。そして、これからを生きる私達にとって、復旧・復興は最優先課題であると言える。しかし、私達が忘れてはならない大切なことがある。
日本という国は一朝一夕にできたのではない。日本列島という大陸で1万年以上も、私達の先祖はあらゆる生命を共尊し、豊かな自然と共生し、社会を共育するという3つの祈りを積み重ねて、経済大国、技術大国日本を創造してきた。
そういう先人やルーツを、今の日本人は忘れかけている。根なし草はそのうち枯れる。それではダメなのだ。
過去の先人達に、そして今を生きる私達に、さらに未来を担う人達の為に、「すまないと生命に祈り」「ありがたいと自然に祈り」「もったいないと社会に祈る」。3月11日は、日本人にとって最も大切な1日として、「祈りの日」とすることを提案したいと思う。