連載(21)八百万神(人)々の結集 平和の礎を築いた昭和天皇


今の平和はどうやってできたか

人類史上最大の戦争と言われた第二次世界大戦から60年余り。日本は戦争のない平和な国になりました。この平和がいかにして作られたのか。現代を生きる私たちが、絶対に忘れてはならないことがあります。それは、祖国のために犠牲になった余りにもたくさんの戦争犠牲者のことです。


第二次世界大戦だけでも


世界で約6千万人
アジアで約2千万人(うち日本人約310万人)


の尊い命が犠牲になりました。


10代20代30代の若い世代をはじめ、祖国のために命を捧げていった英霊達、そして戦争の犠牲となった全てのご精霊は、日本はもとより世界が、さらなる悲劇を繰り返すことを望んではいないはずです。


日本は、絶対平和を目指さなければなりません。




靖国神社発行『英霊の言乃葉 ( 1 ) 』より抜粋


最後の日記


軍大尉 市島保男命
神風特別攻撃隊第五昭和隊
昭和二十年四月二十九日 沖縄県東南方海上にて戦死
早稲田大学第二高等学院生 東京都出身 二十三歳


ただ命を待つだけの軽い気持である。 隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。平和な南国の雰囲気である。 徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。


梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。
隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でゐたい。人間は死するまで精進しつゞけるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。


俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人びとの美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。


【昭和三十七年三月 國神社社頭掲示】


グアム島の遺書

厚生省グアム島元日本兵調査派遣団により発見された遺書より


海軍軍属 石田正夫命
昭和十九年八月八日 グアム島にて戦死
兵庫県加東郡中東条村出身 三十七歳


昨夜子供の夢を見て居た。父として匠に何をして来たか。このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。


合掌


三月○日 内地の様子が知りたい。聞きたい。毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。万策つきれば、いさぎよく死なう。


本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。


遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ。


【昭和三十九年十一月 國神社社頭掲示】


沖縄の戦陣より妻へ


陸軍中尉 渡辺研一命
昭和二十年五月二十七日 沖縄本島喜屋武にて戦死
栃木県出身 東京大学卒 二十九歳


まだお便りする機会は何度かありませう。しかし時機はいよいよ迫りつつあります。それが何時であるかはもとより予測することは出来ませんが、おそらくは、あなた達の予想外の速さでやつて参りませう。その時の来ない中に、言ふべき事は言つて置きたいと思ひます。


然し、いざペンをとつてみると今更乍ら申すことのないのに気がつきます。今の私は強くあらねばなりません。寂しい、悲しいといふやうな感情を振り捨てて与へられた使命に進まなければならぬ立場にあるのです。ただ一切を忘れて戦つて戦つて戦ひ抜きたいと思ひます。


不惜身命 生きる事は勿論、死ぬことすらも忘れて戦ひたいと念じて居ります。南海の一孤島に朽ち果てる身とは考へずに、祖国の周囲に屍のとりでを築くつもりで居ります。何時かはあなた達の上に光栄の平和の日がおとづれて来ることと思ひます。その日になつて私の身を以てつくしたいささかの苦労を思ひやつて下されば私達は、それで本望です。


昭和天皇のご遺徳

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行った日本の戦後処理の時、昭和天皇はマッカーサーを訪問され「私はどうなっても構わない、責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と語られたことに、命乞いをすると思っていたマッカーサーは感動し「われ、神を見たり(マッカーサー回想記)」と記しています。


諸外国では内乱が起こった時、国王などが亡命したという報道を見ますが、昭和天皇は、逃げるどころか国民のために最善の努力を尽くされました。


GHQは、日本国憲法などの制定が進むなかで、日本に再軍備をさせず国体の弱体化を謀るために、第9条に戦争放棄を組み込んだのです。


それはまた、戦争をして犠牲が出るようなことをしてはいけない、もう戦争はやめよう、だから大戦に「敗戦」したのではなく、日本の歴史から戦争を終わりにするため「終戦」の決断を下された、昭和天皇のご意志でもあったのです。


その証拠が、昭和21年3月6日に発行された官報に記されています。


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昭和21年3月6日に発行された「官報」


一条 天皇象徴制
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。


九条 戦争の放棄
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


第二次世界大戦の昭和天皇の戦争責任は、歴史の検証を待たなければなりませんが、 が、世界平和の礎を作られたことは確かです。


また、昭和天皇は軍が製造しようとした原爆を中止されたという事が、出雲井晶氏の『昭和天皇』、河内正臣氏の『天皇の真実』、平野貞夫氏の『昭和天皇の「極秘指令」』のご著書に記されています。


平成の明仁天皇も、平成元年1月9日即位後の朝見の儀で、また、平成2年11月12日、世界150ヵ国の大使の前での(参列者2500人)即位大典大詔においても、昭和天皇の「御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と述べられました。


安全で安心な平和社会のために

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当時の日本・アジアを取り巻く情勢と戦後公開されたアメリカの極秘文書には、「安全保障の戦争」と書かれているようにやむを得ない戦争という側面もあります。折りしも、平成19年1月9日、日本の防衛庁は防衛省に昇格しましたが、不思議な一致というのか、憲法1条と9条が二重に重なった日でした。まさに昭和天皇のご遺志をついで、憲法1条9条を二重に尊重せよとの神図りととれます。


集団自衛権の問題も含め、国防は非常に予断を許さない状況で、極めて重要な選択を迫られています。しかし、日本国は国土も狭く一発のミサイルで崩壊し、武装すればその先は破滅に通じます。


日本には古来から「奴隷制度がない(詳しくは木原秀成著『祀祭政一致の誇れる国 日本』162頁)」すばらしい国なのですが、日本の国体からしても、また、植民地化に失敗しているように、日本は武力を握るのではなく、経済支援・人道支援・技術支援・医療支援・食糧支援などを通じて、世界の平和と環境の創造に貢献することが望ましいのです。


また、平和憲法としての憲法9条は、国際平和憲法にすべく論議する価値があります。(9条2は日本国自衛として慎重なる改憲論議は必要)


争いのない安全で安心な平和社会の創造。自然・生命・社会の秩序が調和する社会。憲法1条と9条を守り、日本国が世界に向けて、戦争放棄・絶対平和を発信することが、人類(万類)の破滅を免がれ、現在も増え続けている戦没者への最大の供養となるのです。


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