産業革命
きっかけは17世紀にイタリアで始まる文芸復興運動(ルネッサンス)です。文芸復興はヨーロッパ諸国の中世におけるキリスト教教会や封建諸侯の圧迫等より解放されて、人間個々の理性にもとづき自由に思索し、真理を探求し、人間生活の幸福をもたらそうとした啓蒙運動であったのです。その傾向が、哲学的にはデカルトの「我思う故に我あり」の自我の目覚めとなり、これにすべての思索の焦点がおかれるようになったのです。
政治的には自由民権思想となり、個人の自由と幸福を人生の目的とし、それを確保する為に、仮に契約して社会を作るというルソーの「民約論」に影響し、やがてフランス革命につながっていくのであります。それと並行して、人間の理性にもとづいて自由に真理が探究されることから、いきおい自然科学の発達となり、機械が作られ工場が建てられて大量の物質が生産されるようになり、いわゆる産業革命の産業社会に入りました。
産業社会
そこで、個人の欲望を基本とした自由競争の経済生活を主張するアダム・スミスの「国富論」が書かれます。これにより産業はおおいに進歩しましたが、個人の自由意志で資本を投下することによって、やがて強大なる資本に生産機関ならびにその権益が独占される、いわゆる資本主義経済が生じてきたのです。
一方、資本をそのままにしておけば、弱い立場にある労働者を搾取することがわかってきました。 そこで、個人の自由な欲望に社会的な制約を加えるのみでなく、 むしろ資本の個人所有を認めず、社会ないし人民の共有に移して利益を公平に分配しようとする、 社会主義を中心としたマルクスの「資本論」が世の注目をあびるようになったのです。
かくして、自由民権を基本とするアメリカを中軸とした、資本主義経済圏と、個人の自由意志に制約を加え、 すべての機関を国家社会の公営に移し、個人を隷属せしめていく旧ソ連や中国の社会共産主義経済圏との対立となってきました。 これらの相容れざる二つの傾向が、地球上の各国を分裂せしめ、 互いに他を制覇して自らの圏内に塗り変えようと虚々実々の謀略を持って熱戦冷戦を繰り広げていたのが産業社会の世界情勢でした。 一方、機械文明の急速な発展は、農猟社会の手作り中心の物々交換経済から、 機械という文明の力を中心とした貨幣経済社会への移行でもあったのです。
今一度図(1)をみてください。 第二の社会といわれている産業社会は、生命なき機械を中心として、人々がそれに動かされ、 また、企業においても組織が中心になり、人々がそれに追順させられるようになったのです。 それは農猟社会における『生命あるもの』との関わり合いから『生命なきもの』との関わり合いへの移行なのです。 そして、物の豊か さは重視しても、生命あるものの大切さを次第次第に失っていったのです。 この頃から現代社会の不安要素が芽生え始めてくるのです。
しかしながら、経済第一主義・効率第一主義の傾向は衰えを見せるどこころか、 欧米型資本主義を中心としてますますエスカレートしていき、 高度消費社会を作りだしたのです。 その代償としてあらゆる分野で歪みが出始め、 公害問題・教育問題・家庭崩壊・非行問題・政治不信・知能的犯罪・企業の社会的責任等々、 問題が噴出し始めたのです。
第3の社会(情報化社会)
それら一連の動向に反発するかの如き新しい動きが、昭和48年(1978)の第二次石油ショックを契機に始まるのです。 人々はようやく機械や組織に動かされてきたことを反省し、より人間らしく生きることの大切さを求め出し、この頃より第三の社会といわれる情報化社会が誕生していくのです。人と人とのコミュニケーションやつながりなどを求めるようになり、 技術の形態もハード(形あるもの)中心からソフト(形ないもの)中心へと移行し始めたのです。
1973年にダニエル・ベルは「脱工業化社会」という著書の中で、情報化社会の予測をしています。 しかしながら、このような社会情勢の変化も、結局は欧米文明の物質中心の勢いを止めることはできず、それはまた経済至上主義ともなり、今日に至っているのです。
日本も、明治維新以降文明開化のもと、文化や伝統を捨ててしまい、欧米文明を模範にして栄えてきました。当時の先進国であるヨーロッパを視察した岡倉天心は「東洋の理想」という著書の中で、日本文明・文化の方が奥が深いと警告されたのですが、今になって後遺症が出てきており、難問が山積みし全てが行き詰まりの段階にきています。