ゆるやかな共同体
4世紀ごろの日本は、朝鮮半島と文化交流をしていましたが、情勢が不安定になり、多くの人々が日本に逃れてきました。そして、朝廷や豪族は、逃れてきた人達を積極的に受け入れたのでした。
その人達によって、日本に様々な技術がもたらされたのです。養蚕・機織り・鍛冶・製陶・建築・・・
これらの技術を持った集団 ( 機織部・錦織部・陶作部・・・ ) は、大和王権の直接支配におかれ、日本の文化や産業を発展させました。
しかし5世紀後半ごろから、朝鮮半島の高句麗・新羅・百済・伽耶の争いに大和王朝も加わり、それを発端に国内でも大和王権への反乱 ( 磐井の乱 ) が起こり、朝鮮半島への影響力は弱まっていきました。
古代社会からの制度も疲労しており、しかも各地の豪族は、それぞれの土地の神や自分達が信仰していた神を中心として、社会を形成していたため、王権の統制がとれなくなっていたのです。
当時、近畿地方を中心に、渡来人も含め1200もの豪族達が群雄割拠していました。
7世紀には、仏教と神道の抗争で蘇我氏が物部氏を滅ぼしました。ところが、調べてみると物部氏は蘇我氏のことを悪く言っていないのです。
これらの豪族は、天皇家から分かれた氏族 ( 皇別=蘇我氏 ) と、天孫降臨から分かれた氏族 ( 神別=物部氏 ) 、渡来系の氏族 ( 諸蕃 ) に分かれるのですが、皇別と神別は、元をたどれば同族民ということになるのです。そうなると、争っている場合ではなくなるのです。
日本で最初の行政改革
このように大和王権は、同族の豪族のゆるやかな共同体でつくりあげられており、蘇我氏との縁戚のあった聖徳太子 (574 ~ 622 48 歳没 ) によって、国家の統制を図るため、土地や豪族の神に支配されない共通信仰の対象として仏教を導入し、神・儒・仏の統合をめざしたのです。
そして、豪族達の中心に合議制としての天皇をおき、中央集権国家の確立をめざし、603年に官僚制度平等化のための「冠位十二階」と、604年に国家統治のための「十七条の憲法」を制定しました。
聖徳太子は、日本で最初に行政改革を断行し、千年以上にもわたって日本国の礎を作ったのです。