連載(20)八百万神(人)々の結集 近代日本の礎を作った明治維新


維新の夜明け

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幕末から明治維新は、保守であれ革新であれ、その立場の中で命をかけて、国を想い君主を想い、未来の日本あるいは子孫の為に、志を持って行動を起こしました。


その中心は、20~30才代の若き志士達でした。幕府側の人達では、会津藩松平容保や白虎隊・新撰組など、日本国中が騒然となったのです。


明治維新は、それまでの日本の歴史上かつてない大転換を迎えた時代だったのです。


幕臣 勝 海舟 43才
土佐藩 中島 信行 20才
土佐藩 後藤 象二郎 28才
佐賀藩 江藤 新平 32才
佐賀藩 大木 喬任 34才
萩藩士 井上 聞多(馨) 30才
長州藩 品川 弥二郎 23才
長州藩 伊藤 俊輔(博文) 25才
薩摩藩 大久保 一蔵(利通) 36才
薩摩藩 西郷 吉之介(隆盛) 38才
薩摩藩 西郷 従道 23才
江戸 中村 宗見 32才
薩摩藩 鮫島 誠蔵(尚信) 21才
幕臣(京都) 岩倉 具定 15才
長州藩 高杉 晋作 27才
肥後藩 横井 小楠 57才
長州藩 大村 益次郎 42才
長州藩 桂 小五郎(木戸孝允) 33才
佐賀藩 江副 廉蔵 28才
幕臣(京都) 岩倉 具経 13才
幕臣(京都) 岩倉 具慶 59才
土佐藩 中岡 慎太郎 28才
佐賀藩 大隈 重信 28才
幕臣(京都) 岩倉 具綱 25才
福井藩士 橋本 左内 26才没

孝明天皇と和宮


孝明天皇は、欧米の急速なる開国要求に対して、日本の伝統がすべて崩壊する危惧から、最後まで佐幕派であったため、毒殺されたとの噂が残っています。  妹の和宮親子内親王も、婚約者がいたにもかかわらず、公武合体のために、皇女が武家に降嫁した唯一の例として、江戸幕府第14代将軍徳川家茂に嫁ぐのです。


近代日本の扉を開けた吉田松陰


幕末の志士の代表と言えば吉田松陰があげられます。松陰は『一君万民論』を唱え、討幕派の多くの志士に支持されました。 志半ばで刑死しますが、遺言の書「留魂録」の冒頭に書かれた辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の通り、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・伊藤博文・山県有朋など、その志は明治維新の志士へと受け継がれました。


世界的スケールを持った坂本龍馬


土佐藩士の坂本龍馬が青年の頃(江戸時代後期の幕末)アメリカの使節ペリーは、日本に開国を迫りました。


この時、幕府の慌てぶりを見た龍馬は「日本は一つにまとまらなければならない」という大きな視野に立ち、犬猿の仲にあった長州と薩摩の手を結ばせ、土佐・長州・薩摩の連合体を実現させました。


道義の巨人西郷隆盛


薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允と並び、維新の三傑と呼ばれた西郷隆盛は、新政府と征韓論で対立し、西南戦争に敗れて城山で自刀しました。西郷隆盛は日本的精神としての、道義やモラルを最後まで貫き通しました。


若者が立ち上がり女性が支えた

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明治は時代の変革期に、若者が『世直し』のために命を投げ出しましたが、それを支えた女性達も忘れてはならないでしょう。


例えば、先にもあげた皇女和宮は、江戸城無血開城の時、徳川方の人間として、明治天皇に手紙を書き徳川慶喜の助命をするなど、影で尽力したと言われています。坂本龍馬の妻となったお龍は、龍馬の命を救っています。後に木戸孝允の妻となった幾松も、勤王派の為に手足となって働き、敵方である近藤勇を感嘆させたと言われています。


明治維新は、多くの若い志士達や彼らを支えた女性達によって開かれたのです。


歴史が人を作る、人が歴史を作ると言われるように、明治維新は、鎌倉時代の蒙古襲来以来の国難でありましたが、まさに、この時代環境の中から、近代日本の礎ができあがったのです。


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